【大人向け歴史学び直し】紫式部の簡単解説 源氏物語と引きこもり女子

日本史を簡単に学び直したい忙しい社会人向けの、歴史人物解説!!

 

紫式部(むらさき しきぶ)という女性は、多くの日本人がご存じなのではないでしょうか?

おそらく日本の歴史上で、最も有名な女性ではないかと思います。

その知名度の高さの理由は、何といっても、日本が世界に誇る大長編小説『源氏物語』の作者である、というのが最も大きな理由でしょう。

 

源氏物語と言う人気小説を書きあげた女性 紫式部。

さぞかし逞しい女性かと思いきや、実はすぐに物事を悪い方に考えてしまう引きこもり女子だったのです。

 

今回は大人になってから歴史を学びたい方向けに、紫式部や源氏物語の概要、そして彼女が日本の歴史に与えた影響など、難しい専門用語は使わず、わかりやすく解説していきます。

 

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紫式部と源氏物語

紫式部(むらさき しきぶ)天禄元年(970年)頃~ 寛仁3年(1019年)頃

 

紫式部の生涯年表

まずは、紫式部の生涯における主な出来事をまとめた年表です。

※紫式部の生没年には定説がなく、諸説あることをご了承ください。

また年齢は数え年で、天禄元年生まれ説を採用したものとなります。

紫式部は何をした人?源氏物語の内容は?

紫式部はどんなことをした女性なのでしょうか。

やはり代表的な事績と言えば『源氏物語(げんじものがたり)』を執筆した、ということでしょう。

源氏物語は、世界最古の女流長編小説とも言われ、現在では20カ国以上の言語に翻訳され、世界各国で親しまれています。

現在の400時詰め原稿用紙2400枚にも及ぶ長大な物語です。

 

源氏物語を、あえて一言で表すならば『恋物語』です。

源氏物語には、主人公の光源氏を通して、男女の関係という形式で人間模様が描かれています。

『恋愛』って、現代でも、多くの人が持つ悩みでもあり、周囲の人たちが興味を持つことでもあります。

Yahoo!!知恵袋にも、数多くの恋愛相談が投稿されていますし、有名人の熱愛とかスキャンダルなんかは、いつの時代も注目を集めます。

 

恋愛の悩みって、いわば人間関係の悩みです。

人間関係って、お金に関すること、健康・美容に関することと同じくらい、いつの時代も、どこの国の人でも悩みを抱える、不変の人間心理なのです。

 

また、紫式部は源氏物語の他にも『紫式部日記(むらさきしきぶにっき)』という文学作品も残しています。

こちらはその名が示す通り日記であり、紫式部周辺の出来事や、彼女の考えや意見などが書かれています。

なお、この日記を読むことで、初めて源氏物語の作者が紫式部だと分かります。

 

ここまでの事績を見ると、物書きのような印象を受けますが、彼女は別に本業を持っていました。

その本業は『女房(にょうぼう)』と呼ばれる仕事です。

女房とは、天皇のいる宮廷ではたらく女官のことです。

紫式部は、一条天皇の奥さんである『藤原彰子(ふじわら の しょうし)』という女性に仕え、彰子の身の回りの世話、教育係を兼ねた話し相手、来客時の取次などを主に行っていました。

 

紫式部のプロフィール

【生年】

天禄元年(970年)頃

ハッキリとした生年は分かっていません。この他にも、天禄3年(972年)説、天延元年(973年)説、天延2年(974年)、天延3年(975年)説、天元元年(978年)説など様々ですが、概ね西暦970年代代の生まれではあるようです。

 

【没年】

寛仁3年(1019年)?

ハッキリとした没年は分かっていません。この他にも長和3年(1014年)説、長和5年(1016年)説、寛仁元年(1017年)説、万寿2年(1025年)説、長元4年(1031年)など様々です。かなり年代に否だ気がありますが、概ね50歳あたりで亡くなったと思われます。

 

【家族構成】

父:藤原為時(ふじわら の ためとき)

父はかなり厳格な性格をした中流貴族だったようです。かなりの堅物だったようで、この父の教育が紫式部の性格に大きく影響を与えているものと思われます(詳細は後述)。

 

母:藤原為信女

母は藤原為信の娘(名前不詳)とされていますが、紫式部が幼い頃に亡くなっているようです。

 

弟:藤原惟規(ふじわら の のぶのり)

姉:名前は不明

藤原惟規は兄という説もあり。この他にも腹違いの兄妹が何人かいたとされています。

 

夫:藤原宣孝(ふじわら の のぶたか)

中流の貴族。なお、彼は清少納言の枕草子にも登場しており、人が二度見するほどセンスの悪い服装をしていたことが書かれています。

 

子供:大弐三位(だいにのさんみ)

本名は『藤原賢子(けんし/かたいこ)』。才女として名高く、母と同様の藤原彰子の女房として宮仕えしている。彼女の和歌は百人一首にも選出されている。

 

紫式部の本名は?

現在では広く認知されている『紫式部』という名前ですが、これは彼女の本名ではありません。

『紫式部』とは、いわゆる女房名(にょうぼうな)と呼ばれるものです。

当時宮廷に出仕していた女房には皆 女房名が付けられていました。

例えば同時代の『清少納言』も女房名であり、本名ではありません。

現代でいうところの渾名に近いもので、結果的には源氏物語を書いた女性のペンネームだと捉えても良いかもしれません。

 

ちなみに、今でこそ『紫式部』という名前が一般的ですが、もともとの女房名は『藤式部(とう しきぶ)』だったと言われています。

『藤』は彼女の実家である藤原家の藤、『式部』は父(もしくは弟)の官位が式部だったことに由来しています。

ではなぜ『紫』になったのかというと、源氏物語に登場する『紫の上』に由来していると言われています。

 

なお、本名は『清原香子(きよはら の こうし/かおりこ)』とも言われていますが、ハッキリしたことは分かっていません。

 

紫式部の意外な性格

ところで、紫式部はどのような性格の女性だったのでしょうか?

紫式部は父から厳格な教育受けており、それが彼女の性格に大きな影響を及ぼしていたようです。

 

父 藤原為時は紫式部の弟 藤原惟規に、日々漢詩を教えていました。

その様子を見て、父の講義を盗み聞きしていた紫式部。

すると紫式部はどんどん吸収していき、弟よりも漢詩の教養を身に着けてしまいました。

当時の常識として、漢詩は男性が身に着けるもので、女性が嗜むものではないとされていました。

そんな紫式部に対し、為時はこんな言葉を漏らします。

『お前が男に生まれて来くればよかった・・・』

 

そんな父の影響もあってか、紫式部は漢詩の知識をひけらかすことなく、宮廷出仕を始めた後も、主の彰子にこっそりと漢詩の講義を行っています。

 

また、紫式部に宮廷出仕の要請が来た際も、彼女自身は乗り気ではありませんでした。

しかし、為時の相当な後押しがあり、結果的に紫式部は宮廷出仕を始めることになります。

この要請は、時の権力者『藤原道長』からのものであったこともあり、為時としては名誉を感じていたのかもしれません。

このような感じで、お堅い父親に育てられた紫式部は、ちょっと影のある控えめな性格に育っていったのではないと思われます。

 

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源氏物語執筆の動機

源氏物語が書かれた理由に関しては、様々な説があります。

  • 物語を書くのが好きな文学少女だったから
  • 時の権力者である藤原道長に書かされた
  • 夫が亡くなった悲しさを紛らわすために書いた
  • 主人公の光源氏のモデルになった人のために書いた

などなど。

この中でもよく言われているのが『夫が亡くなった悲しさを紛らわすため』という理由です。

紫式部が未亡人になったのは長保3年(1001年)30歳を超えたあたりの頃です。

 

当時、紙はとても貴重なものだったので、そう簡単には手に入りません。

なので、最初は『枡型本(ますがたぼん)』と言われる小さな冊子に書いていました。

枡型本を現代風に例えるなら、文庫本サイズくらいのものだと思って頂ければ良いかと思います。

 

最初は書きあげた物語を友人などに読んでもらうような、趣味の一環として書いていました。

源氏物語と言えば、とんでもない長編作品ですが、最初は『空蝉編』『夕顔編』のように、読切作品のような形で書いていたと言われています。

 

そんな感じで書いている内に、源氏物語は面白い物語という徐々に評判となっていきます。

この評判が宮廷にまで聞こえるようになり、時の権力者『藤原道長』の要請により、紫式部は宮廷に仕えるようになります。

 

しかし、この判断が紫式部の悲劇の始まりだったのです。

 

出社拒否と5カ月間の引きこもり

前述の通り、源氏物語は世間でも有名な人気作品となっていました。

この源氏物語の影響で、紫式部は有名になってしまい、宮廷に無理やり引っ張り出されるような格好で宮廷出仕を始めることになりました。

紫式部本人は、宮廷出仕に抵抗があったと、日記で当時の心境を語っています。

しかしながら、父親や周囲の斡旋もあって嫌々宮廷へ赴くことになりました。

このように、本心とは裏腹に宮廷に上がることになった紫式部。

嫌々ではありましたが、とりあえず仕事を始めたのですが、出社して間もなく周囲から酷い仕打ちを受けることになります。

 

先輩の反応が冷たい・・と言うか・・無視されている・・??

たまに話かけられたと思ったら、とんでもない嫌味を言われる・・。

 

紫式部は出仕早々、職場で総スカンを食らいました。

このような事態になってしまった原因・・・それが源氏物語でした。

『こんな評判の物語を書く女は、きっとインテリで教養をひけらかす嫌な性格に違いない・・』

ただ趣味で書いていただけの源氏物語の影響で、紫式部は勝手にマイナスイメージを持たれてしまったのです。

 

意図せず悪い印象を持たれてしまった紫式部は、なんとか状況を打開しようと『仲良くしていただけないでしょうか?』という内容の手紙を先輩たちに送ったりしましたが、全く返事は返ってきませんでした。

元々乗り気でなかった宮廷出仕・・さらに追い打ちをかけるように、人間関係でも嫌な思いをした紫式部は、宮仕え草創に仕事をほっぽり出して、実家に帰ってしまいました。

『もう宮廷になんか行きたくない・・・』 。

こうして、紫式部の引きこもり生活が始まったのです。

 

キャラ変更で復帰

実家に帰って引きこもった紫式部は、再び源氏物語の執筆に励んでいました。

その期間、5か月あまり。

夢中で大好きな物語の執筆に取り組んだ彼女は、ある日突然、宮廷に姿を現しました。

しかし、ただ戻っただけでは再び嫌な思いをするのは目に見えています。

そこで紫式部はある秘策を引っ提げて、宮廷に舞い戻ってきたのです。

 

久しぶりに出社したとはいえ、紫式部に対する風当たりは、やっぱり以前と変わりません。

先輩たちは、彼女を無視し、嫌味を言ってきました。その時、紫式部の秘策が発動しました。

 

『は~、そうなんですか~・・』

『へ~、そうなんですね~・・』

 

先輩たちの嫌味に対し、えらく間の抜けた返事をする紫式部。

実際には、教養があり頭の良かった紫式部ですが、あえて真逆のおバカキャラを演じ始めたのです。

さらには、感じの『一』すら書けないなどと言って、徹底して愚か者を演じました。

ちょっとやりすぎかと思うほどの『すっとぼけ大作戦』。

この紫式部の反応に、先輩女房たちは目を丸くして呆気にとられてしまいまいた。

 

『この人・・こんなキャラだったっけ??』

 

秘技『すっとぼけ作戦』が功を奏し、紫式部の印象は変わり始めます。

『この人・・意外と天然で親しみやすいかもしれない・・・・』

あえてバカなフリをして、周囲の印象をガラリと変えた紫式部。 彼女の『すっとぼけ作戦』は、彼女の宮廷でのポジションを確立する秘策中の秘策だったのです。

 

源氏物語への想い

こうしてなんとか職場に馴染むことができた紫式部。

この後も源氏物語の執筆を続けていきます。

 

前述の通り、この時代の紙はたいへん貴重なものでした。

現在のように、手軽に入手できるものではなかったのです。

 

しかし、紙が無ければ源氏物語を書き続けることが出来ません。

つまり、源氏物語を書くための貴重な紙を提供できる環境があったということです。

 

その環境を提供していた人物こそ、紫式部を宮廷出仕させた『藤原道長』です。

源氏物語が千年読み継がれる大作になった背景には、時の権力者 藤原道長の力添えがあったのです。

現代風に言うと、藤原道長がスポンサーに付いていた、ということです。

 

なお、源氏物語は紫式部が主にあらる『藤原彰子』も読んでいました。

藤原彰子は天皇の妻であり、藤原道長の娘です。

↑左側の女性が藤原彰子

 

有名になった源氏物語の作者である紫式部。

その紫式部が仕える彰子。

それは道長にとって、娘の彰子の権威付けにもなり、自身の威厳にもなります。

 

そのような中で、最初は粗末で小さな紙に書かれていた源氏物語が、豪華で綺麗な紙に編集されていくさまが、紫式部日記に書かれています。

綺麗に飾られ新しくなった源氏物語を見て、紫式部は日記の中で、こう漏らしています。

原文だと難しいので現代風にしてお伝えします。

試しに新しくなった源氏物語を手に取ってみましたが、昔のような感じがしない・・

こんなのは私が書いた源氏物語ではない・・私は愕然としました・・

 

原点である粗末な枡型本に書かれていた源氏物語こそが、紫式部自身が愛した源氏物語。

元々、書くのが好きで書いていたからこそ、好きで書いていた源氏物語を愛していたからこそ、紫式部の意志に反し権威に利用され、絢爛豪華に装飾されて、独り歩きしていった源氏物語。

紫式部日記の記述には、彼女の源氏物語に対する素直な想い、源氏物語が独り歩きしていった複雑な心境が秘められているのかなと思います。

 

日本の歴史における紫式部

源氏物語は、現在の一般的な400時詰め原稿用紙2400枚にも及ぶ長大な作品です。

また、『世界で一番古い女性が書いた長編小説』と言われています。

それだけを見ても、単純に凄いのですが、もうひとつ付け加えておきたいことがあります。

 

それは、源氏物語が成立した背景には、女性が活躍する場があったということです。

源氏物語が書かれた平安時代の中期は、いわゆる『国風文化』の全盛期で、枕草子や更級日記、蜻蛉日記など、多くの女流文学が誕生しています。

 

今からおよそ千年前に、政治や軍事とは違った『文学』という一種の娯楽文化が、女性たちの中から発展したことは、歴史的に見ても稀なことです。

平安時代の中期に、突如としてたくさんの女性が登場し、日本の歴史を彩っています。

これは、権謀術数が渦巻いていた平安時代中期とは言え、基本的には国外からの圧力が無く、ある程度の平和が保たれていたこと、そして、その平和を基盤として、宮廷内に女性が活躍できる場が設けられていたことが大きく影響していると思います。

 

戦時とは、基本的には、力で勝る男性が活躍する時代です。

つまり、戦時だと、どうしても男性が注目されてしまうのです。

 

今からおよそ千年前、日本の外では当たり前のように戦争がありました。

その中で、日本は一定の平和を保ち、多くの女性たちが活躍していました。

これは、世界に誇れる日本の先進性であったと僕は思います。

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紫式部と藤原彰子の絆

以上、紫式部と源氏物語についてでした。

 

最後に、すっとぼけ作戦で人間関係を乗り越えた紫式部の後日談をご紹介します。

おバカキャラで周囲から親しみを感じてもらい、共感を得た紫式部。

とは言え、ずっと『すっとぼけ作戦』を強行していたわけではなく、次第にその才を認められ、宮廷での存在感を強めていきます。

 

紫式部は主の『藤原彰子(しょうし)』という天皇の奥さんに仕えていました。

この藤原彰子も、紫式部に対して最初は良い印象を持っていなかったようです。

しかし紫式部は、やがて彰子にも信頼されて、その教養を生かして彰子の教育にも力を発揮していきました。

最初はおバカキャラを演じつつも徐々に周囲に馴染んでき、誠心誠意、彰子の成長を願い、熱心に教育に当たっていた紫式部の姿に、主である彰子も彼女に共感し信頼を強めていきました。

 

そんなある日、紫式部は彰子から、ある言葉をかけられました。

内気で引きこもりで、友人も少なかったであろう紫式部にとって、とっても嬉しい言葉だったに違いありません。

紫式部は自身の日記で、その時のことをこう振り返っています。

『私は周囲から愚か者と見下されたことを非常に恥じていました。でも、これが私の本性と自分に言い聞かせ努力し続けました。そんな姿を見て彰子様はこうおっしゃったのです』

『式部、まさかあなたとこんなにも心を割ってお付き合い出来るとは思ってもみませんでした。私と式部は他の誰よりも、ずっと

ずっと仲良くなってしまいましたね!』

 

【主な参考資料】